Find.もじこうの人 vol.8
左:内山さん 右:山本さん

場所:あさい和裁学院

門司港にはまちに魅せられ、まちを愛慕する、様々な人が集まっています。
そんなまちを愛する人同士に出会っていただきました...

山本 なんだかお見合いみたいで緊張しますね(笑)。普段、なかなかこんな感じでお話しする機会ってないですから、少し不思議な気分です。

内山 お見合いですか(笑)。山本さんの奥さまの事は以前から知っていまして、旦那さんが和裁をされているとおっしゃっていたので、男性で和裁ってどんな方かしら、と思っていたんですよ。

山本 よく間違われるのですが、私はここの運営はしていますが、和裁はしていないんです。ここへは当時の経営者が引退されるということで、和裁士である姉の勧めで平成16年から携わる事になったんです。もともと生まれは山口県の美祢市でして、仕事も地元の工場のラインでセラミック電磁部品を作っていたんです。

内山この学院はいつからここにありますか。実は私、高校一年生まではこの辺りに住んでいたんですが、その時にはこの学院は無かったような気がするんですよね。

山本 この建物を建てたのは昭和40年の中頃だろうということなので、その時には、もう内山さんは住んでいらっしゃらなかったのかも知れませんね。
あさい和裁は初代の先生がこの辺りに住まれていた芸妓さん達が年をとった時に食べていけるようにと、数人の生徒に自宅で和裁を教えたのが始まりだという風に聞いています。それが昭和元年の事なので、そこから数えるともう百年近くになりますね。その後、生徒が増えたので、二代目が専修学校にしたんです。私はその次の三代目になります。今では九州最後の和裁塾になりました。

内山 昔はもちろん私も母も着物を着ていて、合わなくなると家で洗い張りをして着ていました。門司港には呉服屋さんも本当にたくさんあったんですけど、今では二軒ほどになってしまいました。着物は大好きですし、日本人の知恵が詰まっている着物の文化が継承されていくことを願っています。

山本 課題は多いのですが、和裁の技術をはじめ、着物を思いと共に次の世代へ受け継いでいく事や普段から着物を着る習慣など、着物を残すための活動を今後も行なっていきたいと思っています。内山さんも門司港の色々な歴史や文化を皆さんに語り継いでいるわけですが、ガイドをされるきっかけってなんだったんですか。

内山 私は20歳から概ね10年ほど関東地方にいました。九州出身って言うと田舎者扱いされるところがあって、悔しくて「門司港にはあれもあるのよ、これもあるのよ」と自慢話ばかりしていました。戻って来てからは山城屋に勤めていたのですが、よくお客様から門司港について聞かれる事があり、色々とご説明すると、とても喜んで下さるんです。「これはもっと本格的に調べたことを皆様にお伝えしなければいけない!」と思い、少しずつ勉強を始めました。そして、レトロがオープンした時に栄町銀天街の観光案内所を任せていただくお話しをいただいたんです。その時に、ものすごく勉強をしました。食べ歩き、巡り湯、往訪、カメラで撮りきれないものはその場で絵を描き、門司港の全てを知ろうと思いました。
門司港というまちは私の居場所なんです。故郷とはまた違う居場所。旅行が好きなので全国あちこちを巡るんですが、やはりここの持つ世界に惹かれるんです。山も海も近くて、全て歩いていける範囲で整う。だから関東からこの町に戻って来たのかもしれません。私、ちょっと門司港バカなんです(笑)

山本 いえいえ。私はここに来たばかりの頃に、何もわからないままイベントをすることになって、町の方には随分お世話になりました。山口にいた頃は、関わる人も限られていたので、今はたくさんの人との繋がりを楽しんでいます。本当に門司港に来てよかったなと思っています。

山本 繕賢さん
あさい和裁学院 代表
2004年浅井和裁専門学校に入社。2010年専門学校の休校に伴ない、あさい和裁学院を設立し、和裁士育成事業を継続。
2005年より毎年、北九州でのきものイベント開催に携わっている。

内山 昌子さん
門司郷土会幹事
明治生命、山城屋デパート、栄町観光案内所、下関関門ガイドステーション、門司港ホテル観光アドバイザーを経て現在、朝日カルチャー講師。まち歩きガイドをしながら、建物などの保存活動も積極的に行う。
父は門司港駅にあった「みかど食堂」のコック長を勤めた。

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